昭和48年02月11日 後藤シゲノの御霊神30年祭



 お祭りと言うお祭りの語源は、待つと言う事だと聞いとりますよね。待つという是がお祭りの語源だそうです。それは私が特に感ずるのは、御霊様のお祭りの時にそれを一番感ずるですね。例えば御霊様達が何年の何月は、自分の三十年なら三十年の式年と。それをいうならば、もう本当に心楽しゅう首長ごうして、待っておられる。それをお祭りを仕えようと思う者も、ほんなら何時何時は、誰々の式年のお祭りと、お互いに待ち合うと言う事。是がお祭りだと言われとるがね。
 今日はやっぱそういう意味で大変おかげを頂いた。私は先ほど下がってからすぐお風呂へ入らせて頂いた。お風呂へ入らせて頂いとったら、あの丁度若先生も一緒に入ってきたから、まぁ奇異に思っただろうと思うんですけども。小唄にね「梅は咲いたか」と言うのがある。「梅は咲いたか、桜はまだかいな、柳なよなよ、山吹きゃ浮気で色ばっかり」という小唄です。粋な文句ですがね。それを風呂の中で繰り返し繰り返し、何か喉をついて出るような感じなんですよ。
 そん時は気がつかなかったけれど、今日神様にお礼を申させて頂きよったらその事を頂くんです。例えていうならば本郷とか、寿子さんとか、薫さんとか、良江さんとかという。ほんならこれが、梅でもあろう、桜でもあろう、柳でもあろう、また山吹でもあろう、これに誰がどれに匹敵するかと言う事はまぁ別としてです。とにかく梅は咲いたか桜はまだかいなと言うて、まだかいなと待つと言う事なんです御霊様が。あれが来たがあれが来とらんと、例えば待つと言う事、待ち合うと言う事がお祭りなんです。
 本当に何時何時はお祭りだからと、こう心をかけさせて貰う。そして例えば今日のお祭りの、何ていうか特異性というかというのはね。本当にあの御先祖が生き生きとしてこられる。これは家の根だから、家の根が生き生きしてくるから、これが幹にも枝にも葉にも花にも、やっぱ影響すると言う事は、勿論道理の上からでも感じられるけれども。今日はね例えば文男さんが生き方で、このお祭りを仕えるならね。
 御霊様が喜ばれるじゃ、神様が喜ばれるから徳を受けると。今日私が頂くのはね御霊様やない、こっちの方へお三宝が向いとると、それにあの私が市ノ瀬の昔しの市ノ瀬には、やっぱり磁器がでけとったここで。今は陶器だけどね。磁器の徳利があるです市ノ瀬徳利、市ノ瀬のその市ノ瀬の徳利に、しかも栓がしてある所を見ると、中に御神酒が入っとるとじゃろうと思うんです。
 を頂いたんですね。ですからとにかく、御霊さんのお祭りてんなんてのは、ちょいとお経だけいっちょ上げてもろとことか、もうそげんせんでんち言うけども、出来る限りの事せにゃいかんね。それはそのままね、真心一杯でするなら、そのままが徳になる、利になるとじゃけ。今日のお祭りの特異性て言うならね、文男さん達夫婦がこの事に掛けた事ですよね。このお祭りに、一生懸命の、それなりの思いをかけた事。それは御霊様の喜びじゃなくて、神様の喜びの日頃信心の稽古をさせて頂いておる。
 それこそここで合楽の信心のまぁ一つの理想郷だと言われるように、「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」という、そういう例えば、梅の花の信心も、桜の花の信心も、柳の信心も、例えば足ろうて出来ていくと言った様な信心から、お徳を受けると言う事になる訳なんだけれども。例えば御霊様のお喜びを頂けることのために、一心にお祭りにかける。そういう思いを込めると言う事が、御霊様のお喜びではなくて、そういう信心が育ったということを、神様が喜んで下さる。
 だからそれが徳に利にならないはずはないと言う事。もう出来るだけ本当いうたら御霊様のお祭りは、真心込めて立派なお祭りを仕えなにゃ馬鹿らしかと言う事になるね。それだけほんなら御霊様が喜びなさるとに、神様が感動しなさる神様が喜びなさる程しの御霊さんのお祭りを仕えなきゃいけないね。是は宅祭りなんか尚更な事だけれども。御霊のお祭りは特にそうなんだ。同時に祭りの語源というのが、待つと言う事にあると言う事だけども。もうそれは御霊さんのお祭りにおいて、愈々それを感ずる。
 御霊様も指折り数えて待ってござる、今日と言う日を。是を奉仕する者も前々から、何時何時は誰々の御霊さんのお祭りじゃからと思いをかけておる。そして待って待って待ち合うて、合うたのがこのお祭りなんだ。一つ本当に信心させて頂かなきゃ分からない事なんだけれども。只式年がきたからちょいとお経いっちょ上げち貰おうと、仏教では言うはな。ご法事するそれは形式親戚の手前と言った様なもんじゃなくて。
 お道の信心をさせて貰うなら、何事にもやっぱ信心なれと仰るけん、折角させて貰うなら、真心込めてしようじゃないかと言うのが、私は文男さんだんが夫婦の考え方じゃないかと思うね。今日私は徳利を頂いてからそれを思うんです。折角させて貰うならば御霊様に喜んで頂くようなという、その心が神様の心に叶うから徳にならんはずがない、利にならんはずがない。同時に御霊様は家の根でもあるのですから、根が生き生きしてくるなら、枝に葉に影響せんはずがないわけですよね。そういう今日はお祭りでした。
   どうぞ。